「就職しました。」の続きです。
自動車税事務所
昭和54年 埼玉県職員として最初に配属されたのが、自動車税事務所。
ここでは納税課が6課ありました。1課が収納の管理、3課~6課が差押の担当。
私は納税2課で差押物件の公売(差し押さえ物件を売ること。)担当でした。
公売の通知を持って差押者のところに行ったところ、「お前ら返さない」と言われ先輩と一緒に軟禁されたこともありました。
ある時は40歳くらいのおばさんが「私を差し押さえろ」と泣かれたり・・・
地方課(現在の市町村課)
昭和57年 総務部地方課へ異動。
ここでは市町村税に関することを担当。
市町村の税務担当職員の研修会では、講師を務めたりしました。
20歳代の若造がベテランの市町村職員の前で講師を務める。多い時は100人くらい受講者がいました。講師は何度やっても慣れませんでした。
西部公園建設事務所
昭和60年 西部公園建設事務所へ異動。
ここでは仕事というより、テニス、ゴルフ、マラソン等に夢中になっていました。
テニスは、事務所の庭にコートがあったので昼休みはもちろん、終業後や土日も通うようなありさまでした。
この事務所は、県民ゴルフ場も管理していましたので、安くて人気のあった県民ゴルフ場に何度もお世話になりました。
また、大好きなタバコを止め、坂戸のマラソン大会にも出場しました。タバコは辞めようと思っていたので、良いきっかけになりました。
農政課
昭和63年 農林部農政課へ異動
ここでは嫌な思いでばかりありました。
そう係長試験の受験対象となったのです。
受験資格を持つものがみんな暗い時期を迎えたのです。試験に受からなければ役付きになるのは難しいのです。
私も試験に落ちたりし暗い時期がありましたが、なんとか合格し農政課を出ることができました。
勤労者福祉事業財団 教育課長
平成3年4月 外郭団体である勤労者福祉事業財団の教育課長として、初めての役付きで部下も4人持つことができました。
以下、約付きになってからは、あまり楽しかった記憶はありませんでした。
その後、労働部労政福祉課、自動車税事務所へと2から3年ごとに異動。
労政福祉課では残業が多かった記憶しかありません。
約付きになると遊びで無中になることは、なくなるのですね・・・
大久保浄水場 庶務部長
平成13年4月 大久保浄水場の部長に就任、部下は10人程いました。
しかしながら仕事は単調で若干時間を持て余し、仕事に対する意欲も、やる気も徐々になくなってしまいました。
県職員を辞めよう!
と強く思うようになり、資格試験(社会保険労務士、簿記)に挑戦しようと考えました。
また、不動産(賃貸マンション)も購入し、毎月の収入を増加させ、県職員を辞めても生計が成り立つようにしたいと考えました。
農林部生産振興課 主幹
仕事は忙しくなりましたが辞めようと考えていたこともあり、仕事に対する前向きな姿勢にはなれなかったと思います。上司は良い人でしたが、あまりサポートできなかったと悔やんでいます。
その後、企業局そして監査事務局と異動になりましたが、51歳で退職(平成20年)
退職を考えたのが平成13年ですから、7年後に退職したわけです。両親や妻は大反対でしたが、なんとか無事退職できました。
退職した年の4月に帯状疱疹になり、近所の医院に2週間程度通いました。退職は精神的にもキツイものであったと思います。
次の「再就職しました。」へ続きます。