「思い出(いたずら②)」の続きです。
最初に夢中になった遊びと言えば「ボーリング」でしょうか。
ボーリング(昭和48年ころ)
中学3年の頃でしょうか。ボーリングがとても流行っていました。
同級生の中にはマイボールを買って、高級そうなバックに入れて見せびらかされた記憶は、とてもよく覚えています。
私は、小遣いも少なかったので、マイボールなんて勿論持てず、ゲームも2ゲームほどして、あとは友人のを見ていました。
ボーリンクの解説本を購入して練習らしきことをしました。私は、高得点をとることよりもボールを回転させることに一生懸命であったような気がします。やはり高得点をとるには練習量がものを言います。私にはボーリング場に頻繁に行くお金がなかったので、技術で勝負と思っていたのでしょうか。
次に夢中になったものと言えば「インベーダーゲーム」でしょうか
インベーダーゲーム(昭和51年ころ)
大学1年生の頃、アルバイトをかなりしていましたので、自由に使えるお金は、それなりにありました。
高校生の頃は喫茶店には、めったに行くことはなかったのですが、大学生ともなると毎日のように行っていたのです。
そして、テーブルには、インベーダーゲームがあったのです。
友人とコーヒー1杯で数時間つぶしました。1日で3千円くらい使うのは当たり前です。月に数万円も使ってしまいました。アルバイト代がなくなり、ご飯に塩をかけて食べました。米は実家から送ってもらっていました。
麻雀(昭和51年から53年ころ)
これは大学生の定番ゲームですが、タバコを吸いながら朝まで麻雀、そしてアルバイトへという生活です。
この頃は白髪頭になってしまい、自分で適当にカットしていましたが、カット後の髪に白髪の量が3分の1くらいでした。誰かが栄養失調で白髪になったのだと言っていました。
卓球(昭和56年頃)
就職し、その職場には卓球台がありましたので、昼休みは毎日のように卓球でした。
土日は、中学校の頃からの友人と東松山市の卓球会館で卓球三昧でした。
登山(昭和60年から数年間)
中学校からの友人と2人で行くことが多かったのですが、時には女性を含む4人での登山もありました。雲取、槍ヶ岳など今でも思い出します。
山小屋では、一緒に行った女性から足をもんでもらいました。なぜ足をもんでくれることになったのか思い出せませんが、とても気持ちがよかったことは今でも覚えています。
ふくらはぎや足の裏をかなり長い間もんでもらったのですが、足が臭くないかなどと変な心配をしてしまいました。
テニス(昭和61年から62年頃)
本庁から出先機関である西武公園建設事務所に異動になりました。事務所の庭にテニスコートがありましたので、昼休みと仕事明けにテニスに明け暮れていました。
そして土日には、4、5人で近くの有料のテニスコートを借りていました。
ゴルフ(昭和61年頃から)
西部公園建設事務所は県営のゴルフ場も管理していました。
そのため職場の人たちの多くはゴルフをたしなんでいました。また、ゴルフ場に勤めていた人とも知り合いになり、ゴルフをする仲間が増えました。
毎日のようにゴルフ場に行くということは、お金の関係もありできませんがゴルフの練習場へは週4くらい通っていました。
囲碁(平成2年頃から)
将棋は小学生の頃に覚えましたが、時々やるといった程度でそれほど一生懸命になった記憶はありません。
その後、囲碁を覚えたのが就職して10年ほど経った頃でしょうか。
職場の上司から東松山の囲碁クラブに誘われ加入しましたが、会員の中で一番下の級でしたので、1年ほどでやめてしまいました。ただしやめる時には、少し実力も上がっていました。
それから十数年、たまに職場で囲碁を楽しんでいました。
現在、地元の囲碁クラブに加入しています。
囲碁は負けると悔しいのですが、勝った時の喜びは何とも言えません。
ゴルフ、テニス、登山、卓球など、数年でやめてしまい、その後ほとんどしていないのですが、囲碁だけは現在も続いています。
趣味はと聞かれると、とりあえず「囲碁」と言っています。この年になって趣味と言えるものを持っていることは自慢です。