大学卒業(昭和54年)
法政大学は、そのころ中核派が試験を妨害していたので、試験なしで3年4年へと進級。
ただし科目ごとに課題が出され、レポートの提出を余儀なくされました。つまりレポートと出席点で評価されたのです。
このころ私は、江戸川区平井の4畳半トイレ共同、風呂なしのアパート住まい。
生活費とアパート代のため、喫茶店でアルバイトをし、一日9時間、週5日働いていました。
そのため授業に出ることはほとんどなく、出席点はゼロに近く、レポートの点も同級生から写させてもらい提出といった体たらく。
不思議なことに、同じレポートでも私は「C」写させてくれた同級生は「A」でした。やはり出席点のせいでしょうか。
ということで私の成績はほとんど「C」又は不可の「D」。
公務員を目指す
大学3年の10月ころ、友人から「A」が10以上ないと就職は無理と言われました。このころは就職難で友人たちも戦々恐々として就職先を考えていました。
同級生も、このような私を見て少し安心感を持ったかも・・
成績点で就職がだめなら、筆記試験のみで評価してくれる公務員を目指すことに・・・
勉強のため、大学4年になる直前2月にアパートから実家に戻り、5ヵ月後にある埼玉県職員の採用試験に挑戦しました。
一次試験に合格した時は、落ちたかなと思っていたので、うれしいと同時にとても驚きました。
そして2次試験の論文、面接と無事合格しました。
ただし次の難問がありました。大学を卒業できるかということ。
1~3年でいくつか不可点を取っていたので、そのしわ寄せで4年でも多くの科目を受講しなければならなかったのです。
1科目でも落とすと留年になりそうでした。卒業ができないと採用が取り消されるのでは。
そんなこんなで気苦労が絶えませんでしたが、無事卒業。
その後も何度か「卒業できなかった。」といった夢を見。目覚めると冷や汗。
大学の卒業式では、「お前よく公務員になれたな・・・なんで卒業できたんだよ」と言われました。
同級生の中には、就職できずわざと留年する者や就職のための資格等を取得するため、卒業後に改めて別の学校に通う者もいました。
晴れて埼玉県職員に
昭和54年4月、埼玉県職員として入庁いたしました。
大学時代にあまり勉強もせず、たまに授業に出ては麻雀などに夢中になっていたのに、就職できるなんてありがたいことでした。
新しい人生がスタートしたと行ったところでしょうか。
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